五郎丸選手自らが「ターニングポイント」と語る試合があるそうだ。それは、2003年1月3日の全国高校ラグビーフットボール大会(花園)での準々決勝・東福岡戦。
当時2年の五郎丸選手にとって、この大会は特別な意味を持っていた。一つは、小中高と同じチームでプレーし、「目標」でもあった1学年上の兄亮さんと一緒にプレーする最初で最後の花園の舞台だったこと。そしてもう一つ。大会前に、幼いころから熱心に応援してくれた祖父を病気で亡くしていた。
当時のチームメートの井石進也さんは「歩はおじいちゃん子。亡くなった時はとても落ち込んでいた。お兄さんと最後の大会でもあり、人一倍気合が入っていた」と振り返る。
しかし東福岡戦の開始直後、五郎丸選手は相手のキックをキャッチし損ね、トライを奪われた。このシーズンはそれまで東福岡と2度戦い、いずれも勝利していたが、動揺したチームはそのまま12-58で大敗した。
当時監督の小城博監督は「五郎丸だけでなく、直前の高知国体で優勝しチームにおごりがあった」と言う。小城さんは「グラウンドで失った自信と周りの信頼はグラウンドで取り戻すしかない」と、佐賀に戻った後、五郎丸選手とマンツーマンで猛特訓を始めた。
通常練習でくたくたになった後、前後左右にボールを蹴り、ひたすらキャッチし、すぐキックさせる練習を間断なく繰り返す。時に1時間半を超えることもあった。現在の部員たちに「五郎丸シフト」の名前で恐れられる居残り練習はこの時から始まった。
小城さんは、五郎丸選手の活躍で歴史的な勝利を収めた南アフリカ戦と次のスコットランド戦を現地で観戦し、声援を送った。その小城さんが最も興奮した場面が、スコットランド戦の前半終了間際、相手のトライを阻止したタックルだ。公式サイトで大会第1週のタックル1位にも選ばれ「高校時代の猛特訓がワールドクラスのディフェンスにつながった」と語っています。
小城さんはサモア戦に向け「高校のころ苦しい思いをしたからこそ、失敗を繰り返さなくなった。世界に通用する日本人初の大型FBとして、任務を遂行してほしい」とエールを送る。
サモアとアメリカを撃破して、新し歴史を作ってほしいですね。。。